きれいな蓮の咲く寺 | 大蓮寺

京都・安産祈願の寺 | 洛陽三十三所観音霊場八番札所 | 走り坊さんの寺(足腰健常御守)

走り坊さん伝説 

走り坊さんの御守

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最近、私もランナーとしていろいろな大会に参加させていただき
その、ご縁でたくさんのランナーの方々と知り合わせていただきました。

このホームページを通じ全国的にも、いろいろな方と知り合いマラソンの
交流もありました。

先月は、ランナーズで紹介されたり、マリモさんの本などもつうじて何人
かのランナーの方々も、当寺を訪れていただきました。

当寺の「走り坊さん」をご縁にたくさんの、いろいろな環境で走っておられ
る方々と縁のある事が今はありがたいですね。(本当に)

御守 体裁
走り坊さん 足腰の御守

走り坊さん伝説

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走り坊さん伝説8でも、述べたとおり走り坊さんは誕生日と命日が
一緒です。
明治5年11月20日〜大正7年11年20日(戸籍調済)。

大蓮寺 縦バージョン

これも前述とおり、個人的にも大好きな幕末の英雄坂本龍馬(11
月15日)と同じです。

この1/365の確率の人、ほかにも有名人おられるのですね。
いちおう調べてみました。


坂本龍馬(11月15日)
足利義政(7月12日)      銀閣寺を建てた人
加藤清正(6月24日)      豊臣秀吉の有力な家来  
小津安二郎(12月12日)    有名な映画監督
船越英二(3月17日)      有名俳優
三遊亭円生(9月3日)      6代目         

などがおられました、
ほかにも、おられるかもしれません。



走り坊さん伝説

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最近、いろいろな所の方が、足腰健常の御守の当寺の「走り坊さん」に興味を持っていただき
お問い合わせをいただいております。

「走り坊さん」にご興味がある方は、ごらんになってください。
私個人も、今年、4回目のフルマラソンを完走しました。
そこから考えても、走り坊さんの走った距離はとんでもない話です。

当寺の走り坊さん伝説は、明治時代「走り坊さん」と一緒にすごし
ていた人の話が元になっています。

確かに、車はもちろん殆ど交通手段のなかった時の話です。
昔の人はすごかったんや。
走り坊さん伝説

走り坊さん伝説9

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ー絵本「京の走り坊さん」ー

「走り坊さん」のモデルにした物語が、東義久氏により出版され、馬場精子さんにより朗読されています。
 東氏作の絵本「京の走り坊さん」は、「走り坊さん」を実際に見た同氏のおばあさんの話が元らしいです。確か、この本が出来るまで今の内の寺の事は、よくご存じなかったように思います。
 よって、内容は時代考証も含めてフィクションですし、史実とは大きく異なります。ただ、不思議と読めば読むほど「走り坊さん」の心というか神髄をよく表現していただいていることを感じます。このストーリー上では「走り坊さん」のやさしさや滑稽さの表現も含め、たぶん本人もあんな人やったと思います。
本人も「今一休といわれ、他人のために働いた人やったし。ものすごく酒好きやったし。シャイな人やったし」など。
 そして、ほんの何十年前、実際に「走り坊さん」を見たおじいちゃんやおばあちゃんが孫や子供に聞かした京都弁が、馬場さんの朗読により見事に再現されているように思い、何か懐かしさを感じます。
 この本の最後、いわゆるオチは「走り坊さん」は鬼の生まれ変わりということですけど、何かおじいちゃんの「走り坊さんは、きっと誰かの生まれ変わりや」といってたことが関係があるような気がしてなりません。
 童話とか民話って、創作をしながら「心」の本質が伝わっていくのやなって思います。
 本当に、縁があれば読んでみてください。

走り坊さん伝説8

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       走り坊さんの葬儀

 走り坊さんは、大正7年11月20日に亡くなりました。11月20日は走り坊さんの誕生日でもあります。命日と誕生日が同じ日というのは幕末の英雄坂本龍馬さんもそうです。(余談)
 走り坊さんは46歳の時、流行性感冒という病にかかります。当時流行のスペイン風邪という、いわゆる新型インフルエンザです。今なら簡単に治った病気も当時は命とりとなりました。死期を悟った走り坊さんは、とにかく酒をほしがったといいます。
 ここからは、実際に見ていたおじいちゃんの話ですが、酒の入った一升瓶を渡されると、それをおいしそうに飲み干しそのまま亡くなったそうです。
 それから数日後、走り坊さんの葬儀が大蓮寺で営まれた(当時五条)そうです。その事は大正7年12月4日の朝日新聞京都版で掲載されています。
 その記事のはじまりが、序章で書いた
ってもらう為に、その特徴を書きます。
「飛ぶが如く走るが如く、洛中洛外を走って走って走り通した大蓮寺籏玄教(走り坊さん)。
雨が降ろうが風が吹こうが彼の走る姿を見ない事はなかった。大きな坊主頭の法衣姿に汚い頭陀袋を下げて、グッと丹田の辺りに力をこめ乍ら、彼は緩急よろしきを得た一定の速力を以て毎日毎日走り廻った。
毎月1回、未明に起きて先ず四明ヶ嶽(比叡山)を踏破し鞍馬山をかけて、更に愛宕神社に詣でて帰ることに極めて居たのを見ても其健脚が知られようされば、洛内外の隅にまで彼の知らぬ処はない。
半面には慈善救済の心懸けは忘れず、終始貧民窟に出入りして、有りったけの私財をはって顧みなかったので何時とはなく今一休の名さえ伝わった」
      大正7年12月4日の朝日新聞京都版の記事より抜粋

 葬儀の時、走り坊さんのことは、十分知っていたはずの師匠教岸はじめ寺の者も、どこでどんな人に会っていたかもは知りませんでしたので、会葬者の数はあんまり多いとは予想していませんでした。ところが、ふたを開けると次から次から大蓮寺の前は会葬者が途切れなかったそうです。その多くは走り坊さんに困っている時、物品を恵んでもらった人やったそうです。大蓮寺の人々も、この時改めて走り坊さんの功績を知ることとなりました。このことは、幼いおじいちゃんにも衝撃やったそうです。大正時代の新聞は、こんな走り坊さんを「今一休」とたたえています。
 走り坊さんの「走り」により救われた人も多くいたという事です。

走り坊さん伝説7

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ー神懸かりな健脚ー

 走り坊さんは健脚でならし当時は有名やったらしい。おじいちゃんによれば、
「お寺に来てからの心身の鍛練のせいか、心臓が強いこと抜群で1日に15里(60km)を托鉢して回り、月に3度は朝4時に起きて比叡山四明岳に登り北山沿いに鞍馬山の鞍馬寺に参詣し、さらに北山の裾を通り愛宕山に参拝し火の用心を祈願し昼頃には寺に帰ってくるという健脚ぶりやったんや。」
  私もそれぞれの山には何度も登ったことがあります。年配の方でも健脚の人なら充分登れる山です。但し、1日に全部登るとなると時間的にありえない事です。まずもって常人には不可能です。京都の人なら普通に納得していただけるでしょう。
 この中でも特に走り坊さんが好んで登った愛宕山は、古くから火の用心でしられ、生まれた子供が3歳までに登と一生火災には遭わないと伝えられています。 京都市内から登れる山としては、1000m級で一番高い山です。
 京都では、特別に神秘的な山でもありますし、愛宕山に登ることが健康の証みたいなところもあります。
 この愛宕山にまつわる「走り坊さん」のエピソードで、祖父が子供の頃のある日、何人かの仲間で愛宕山に登ったある日のことです。みんなは、午前中に登山を終え頂上で昼食もして下山し、ほぼ降りてきて入り口の鳥居に降りた時、一緒に登山した一人がリュックを頂上に忘れていた事に気づいたようです。
 その時、月に3、4度の愛宕参りに行く途中の「走り坊さん」が現れたといいます。困っていたおじいちゃんたちが、相談すると「取ってきてあげる」といとも簡単に言った「走り坊さん」は、鳥居くぐって登山していったということでした。
 ここからは生前のおじいちゃんの台詞のままですけど、
おじいちゃん「走り坊さんはな、それから10分くらいでもどって         きゃはったんや。何か忘れ物かなと思って見ると、        頂上でわすれたリュックもってはったんや。」
 私    「ありえへん。愛宕山登ったことあるけど。普通登
       るだけで1時間以上かかるで。半分の30分でも
       不可能や。うそくさすぎる」
     「遊んでて、時間短く感じたんや」
        (本気でボケかなと思った)
おじいちゃん「そんなこんないうてる間がないほど早やかったん
       や。みんな目撃してる」
私     「途中、誰か登山者と合って。渡してもらったんち
       ゃうか?」
おじいちゃん「あほか。そんなんが誰もいいいひんかったんや」
   「のりや(私)言うとくけど。この世は理屈じゃは
       かれん事があるよ。おそらく仏教でいう神通力や。」      「走り坊さんは、きっと誰かの生まれ変わりや。間
       違いない。けどおまえら若い子に納得できる説明
       ができない」

 これは物理的には絶対不可能な話ですが、40歳を過ぎた今、漠然とだがありえると本気で考えている。
 それは、歴史上の偉人や偉い宗教家などを、単純に凡人の自分レベルの物差しで測ることの愚かさを少し理解できるようになってきた。これ以上は、うまく言えないけど。将来自分の孫にはおじいちゃんと同じ事をいうと思う。

走り坊さん伝説6

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ー大酒豪ー

 前のところでも充分知っていただいたと思いますが、『走り坊さん』という人は、あれだけ人気があったのに、地位や名誉には全く関心がなかった。金品にも興味なく、女性にもからっきしだった。
 おじいちゃんによれば、こんな『走り坊さん』でも、かなりの大食漢で大酒豪やったらしいです。
 これは直接聞いた訳では無いですけど、おじいちゃんの書き残した物の中に、
「彼は米一斗、酒一斗いっぺんに食し、正月雑煮の餅は七十個もたいらげた」とあります。
おじいちゃんは生前、年始を迎えるといつも「走り坊さん」の七十個餅を食べた話をしました。
 当時、正月の恒例行事として、年末についた餅をもって、お寺の人みんなで檀家さん一件一件に挨拶に行ったらしいです。もちろん、便利な乗物(自動車・バイクはもちろん自転車も無かった時代)は無かったから、本当に寺の人々が総動員して走り廻ったということらしいです。その後に、帰ってきたみんなでお餅を雑煮に入れて食べたという話です。
 余談ですけど、雑煮は「京都風・白みそ」の雑煮です。他府県の方も、食べられた事のある人は、よくおわかりと思いますが吸い物としてはかなり甘いです。京都では、怒られるかもしれませんが私は大の苦手です。
 その中に、食べ盛りの若いお弟子さんや息子(おじいちゃん等)が餅を入れてたらふく食べたそうです。最後は、競争して食べたそうです。
 「昔の事やから、今と違っておなかいっぱい物を食べるのは正月くらいやったんや。今のおまえらにはわからんかもしれんけど、お餅はすごいごちそうやんたんやぞ。」「わしもその時ばかりは、お腹がちぎれるほど食べた二十個以上や。でも走り坊さんは、もっと食べはったぞ五十以上はいつも軽い。その上お酒の飲みっぷりもすごかったんや。」
 お酒といえば、ある意味「走り坊さん」の真骨頂でエピソードも多い、
おじいちゃんの話によると1日約1斗やったらしい。おじいちゃんの昔話で、必ず出る話が後述の愛宕山の話と大酒の話でした。私もお酒は飲みます。日本酒は、あまり得意な方ではないのですが、今までに一度だけ1升飲んだことがあります。20歳のころ若さ故、友人と話がはずんで朝方まで飲み明かしました。次の日は、察しのとおり大変なことになりました。あんな2日酔いは、はじめて経験しました。それから、2度と1升はもちろん、日本酒はほとんど飲めなくなりました。(で、専らビール党です)
 だから、日本酒1斗ってどんなに馬鹿げた数字かも、わかっています。今でも信じられません。しかし乍ら、知りうる限りの事実だけをつなげますと、「走り坊さん」が、1日に訪れた檀家さん及び信者さんの件数は平均100件あまり、みんな「走り坊さん」の酒好きをしっていたらしく、お茶の代わりにお酒をコップ1杯強(約1合)出していたらしく、「走り坊さん」も大好きやったから、そのお酒は、絶対断ることなく飲んでいたらしいです。
 単純計算で
    1合×10件=1升  1合×100件=1斗
ということになる。単純計算ですけどね。
 このうそみたいな話にも、ほんの何年か前には、目撃者が何人かご存命でした。例えば、二十歳くらいの若嫁の時代に「走り坊さん」に直接面識があった、大蔵流狂言師で人間国宝・現茂山千作氏の母上さまの故寿賀さんの話によれば、「いつもお酒を1合くらいを出していたました」と、大蓮寺の昔話として詳しく証言されておりました。また、私自信もご本人から生前に聞いたことがあります。
 おじいちゃんの話によれば夕方には、ベロンベロンに酔っぱらって、しょっちゅうお巡りさんのお世話にもなってたみたいです。「でも最後は、走り坊さんと解って釈放されはったんや」

2月14日

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本日、2月14日は「走り坊さん物語」のおじいちゃんこと
先代住職教戒和尚の祥月命日です。

 現在の大蓮寺・本堂は、平成3年12月〜平成4年12月
の1年間で建立された。時代はまさにバブル経済の最盛期で
ありました。そんな時代とはいえ、多くの檀家さまのご協力
やご苦労により落成したのでした。
 本堂は建物が出来ても木造建築で、須弥壇、宮殿が出来き、
佛様を安置して、はじめて拝む御堂になる。
 平成5年2月14日、本堂は裏堂のお釈迦さまの図だけを
残していた。その日の昼ころお釈迦さま図が運びこまれた。
作家の福嶋先生の涅槃会には間に合うようにとの配慮のおか
げでありました。
 住職(父)と私がお釈迦さまを受け取った時、奥の部屋で
は危篤の先住が寝ており、座敷には弥陀来迎図が掛けてあり、
覚悟はしていた。
 その日の夕刻、お釈迦さまの完成を待っていたかのように、
先住は往生浄土した。

 今の本堂の完成後、最初の行事が先住の葬式となった。
 当寺にとって、2月14日は19世教戒住職の命日であり、
現本堂の落慶記念日でもある。
                  
                         合 掌
                      南無阿弥陀仏

走り坊さん伝説5(ひさしぶりに)

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  ー得度し本当の僧侶になる?ー

 玄定が亡くなってから2年後の明治40年に、この話の裏の主役、おじいちゃんこと祖父が誕生します。
 その年に、『走り坊さん』は得度して所謂本当のお坊さんの見習いになりました、僧名は両師匠玄定と教岸より1字ずつもらい玄教と名乗る。同時に前述したとおり教岸と養子縁組みし、教岸の前の姓「籏」を継ぎ『籏玄教』という立派な僧侶名になりました。
 得度はしたけど、本人は今までどおりであったようです。位や地位などには全く興味のなかった『走り坊さん』はお経を覚える気も全然なく、気持ちは寺男のままだったようです。
 おじいちゃんの話から想像するに、この人は、もともと欲というものが人並みになかったようだ、
「世に知られるようになってから、今でいうファンみたいな人やろな、そんな人から京都市内を走っているとよく喜捨を受けてはったみたいやけど、寺に帰った時、『走り坊さん』の頭陀袋の中はいつも空っぽやった。あとでわかったんやけど、貰った金品を貧しい人の家に行っては全部あげてたらしい」これは、最初にも書いたとおりですが、このことからか、当時の人は「走り坊さん」を今一休と呼ばれたらしい。
 祖父も、このようなことは大人になってから(走り坊さんが亡くなった後)知ったようです。
 「あと、女の人にももてたんやで。独身やったんは、皆知ってはったんで、きゃーきゃー言い寄られたていう話やけど、本人が全然色恋に興味が無くて、声かけられたら必ず「はい、さようなら」って、それでしまい。(笑)」 
 何事にも無頓着な『走り坊さん』だが、困ったことはあった。それは、世間の人はお経を覚えていない事は知らなかった。
「人気者の『走り坊さん』は、時々お寺の檀家さんやそれ以外の町の人からも、是非お経を読んでくれって頼まれて帰ってきはったんや。」
 お経も読めないのに頼まれたら性格的に断れない。師匠にも無断でお参りの依頼を受け『走り坊さん』、困ってしまった。その時、「走り坊さん」どうしたかというと。
「わしを探さはったんや。『マーちゃん(祖父の幼名)いるか。一緒にお参り来て』って。わしは、父親が厳しかったから、物心ついた時から毎日がお経の練習ばっかりやった。小学校から下手なりに簡単なお経は、そこそこ暗記してた。それを知って『走り坊さん』は、小学生のわしに助っ人を頼んだんや。『走り坊さん』は、師匠の命で小僧を連れてきた、という体にする、わしは『走り坊さん』の横に小僧として座る、鐘がなったら『走り坊さん』はお経唱えるふりして、本当は全部わしが唱えるのや。(笑)
 でも、家の人は『走り坊さん』がわざわざ来てくださったって、えらい喜んで御礼をしてくれはるんやで。」
「いややなかったか?って、正直いうと、お参りの帰りに『走り坊さん』は、いつもうどん屋に連れて行ってくれるんや、そしてきつね丼を食べさせてもらうんや。(笑)あの頃はすごいご馳走やで。それが楽しみで『走り坊さん』から声かかったら嬉しくて!(満面の笑み)」
 子供とお経の読めない坊さんの変な(?)コンビは、しばらく続いたそうだ。
 晩年のおじいちゃんは、この話をする時が一番楽しそうだった。あの『走り坊さん』の役にたっていたことが何とも誇らしげで、小さな私としても、そのおじいちゃんの話っぷりで、『走り坊さん』のやさしい人柄や、本当は損得勘定抜きに、お互いを大好きだったことが十分すぎる程伝わった。 

走り坊さん物語4

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ー安産宅配便・走り坊さんー
 
 明治時代以前の京都には皇居がありました。そんな関係で京都には天皇家や宮家とつながりの深い寺社仏閣がたくさんありました。
 大蓮寺も江戸時代に後光明天皇の婦人が御懐妊の時に勅願所となり、祈願の結果難産が無事安産になりました。そのご縁で、陛下が亡くなった後も、生まれた一の宮内親王は大蓮寺の熱心な信者となり、その植髪の御名号はいまでも寺宝として残っている、以降も後光明天皇の甥宮でありました有栖川家が代々意志を継がれ、同宮家絶えるまで大変庇護していただき、今でも当寺の安産のお守りの本体には有栖川家の御紋を使用しています。
 そんな関係もあり、人口が増えていく時代というのもあってか、だんだん安産のお参りが多くなっていました。
「明治の中期から後期になると、安産の守護符やお守りやお腹帯を求め、多くの京都のご婦人が参詣されるようになってくるんやが、そのなかでも交通の不便な時代に身重の人が参詣しにくいので、頼まれて届けるようになったのや。」
 そのうち、毎日毎日走っている姿を見るようになり、巷では『走り坊さん』と呼ばれるようになった。おかげで、安産守護符の配達も何百件になったといわれています。更に、それが走る広告塔になって、信者さんどんどんふえていったようです。
 『走り坊さん』が運んでいた安産守護符は、安産阿弥陀如来の功徳の大きいものですが、今でも当時と同じものを安産祈願の授与品としてお出しております。
 それは《安産御宝号》と書いた小さな紙の袋に入っており中には阿弥陀如来の宝号が入っている。
 これをもらった妊婦さんは、次の早朝に一番水(白湯でも良い)と一緒に飲めば、如来さまの功徳を直接にいただき安産になり、さらにお腹のお子さんの成長にも功徳広大といわれています。だからなかなかお参りできないけど、是非守護符が欲しい妊婦さんは『走り坊さん』に頼んだのでした。
 また、やさしい『走り坊さん』は誰に頼まれても、どんなに遠い人の所にも運んでいってあげました。
 昔の時代の安産宅配便です。
 ある日、不思議な出来事がありました。大蓮寺で安産祈願した妊婦さんが陣痛がきたので普通に守護符を飲まれました。数時間後に分娩されましたが、なんと不思議なことにお母さんの飲んだ守護符を、生まれたお子さんが右手に握っておられた。
 常識で、口から入ったものが子宮から生まれた子供の手にあったってあり得ますか?祖父によると過去、そんな事は何例かあったようです。
 


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