「祇園」という言葉を聞けば、全国の多くの方は京都の祇園街、所謂「舞妓はーん」をイメージされることでしょう。
でも、京都では祇園が八坂神社の前身「祇園社」に由来している事をご存知な方も多いです。
明治の廃仏稀釈までは、八坂神社を祇園社感神院(ぎおんしゃかんじんいん)といい、社内には神様と仏様が共存されていたんです。
その時代のお話です。
私は仏教徒ですので、神さんのことはよくわかりませんが当時祇園神殿には、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)の本地といわれる「牛頭天王」(ごずてんのう)がお奉りされていたそうです。
来月は祇園祭りですが、今も鉾町では牛頭天王の掛け軸などをまつっておられる所がありますので、観光にお越しの際はご覧になってみてください。
その、神殿(本殿)の西側に、薬師堂(祇園寺・観慶寺と呼ばれたお寺)があり「牛頭天王」(ごずてんのう)の本地仏の薬師如来(伝教大師作・写真下)がお奉りされていました。
そんな京都の歴史にとって貴重な仏様が、今は当大蓮寺におられます。
最近、祇園にお住まいの方に聞いたのですが、廃仏が決まった時、その方のご先祖や町内の方々は必死の思いで仏様を担ぎ出されたようです。そこから民家に隠され、やがて縁のあった近隣寺院(当寺)に運びこまれました。
でも、薬師如来さまの災難は終わりません。五条西洞院付近の大蓮寺に移された後、第二次世界大戦中の昭和20年に強制疎開させられ大蓮寺は潰され、東山二条の現在地へ荷車で運ばれたようです。
本当に国の都合により、京都の歴史にとっても大切な仏様が粗末に扱われた時があるんです。

祇園社本地仏 薬師如来像ー重文ー 大蓮寺本堂内(秘仏)
明治以前の日本の信仰は、本地垂迹説という考えがあり神仏が習合しており、遠い世界の仏様(本地)が現世では神様として我々に近い存在としてお姿を表していただいている(垂迹)という考えがベースになっています。この事は後日もう一度発信しますので、今はあったということだけを覚えておいてください。
祇園社は、疫病封じというという部分が強く、祇園祭の前身といわれる祇園御霊会も疫病封じからはじまったといわれています。
「牛頭天王」は栴檀でできていたらしいですし、本地薬師如来さまとも薬という「キーワード」でつながっていたんですね。
でも、京都では祇園が八坂神社の前身「祇園社」に由来している事をご存知な方も多いです。
明治の廃仏稀釈までは、八坂神社を祇園社感神院(ぎおんしゃかんじんいん)といい、社内には神様と仏様が共存されていたんです。
その時代のお話です。
私は仏教徒ですので、神さんのことはよくわかりませんが当時祇園神殿には、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)の本地といわれる「牛頭天王」(ごずてんのう)がお奉りされていたそうです。
来月は祇園祭りですが、今も鉾町では牛頭天王の掛け軸などをまつっておられる所がありますので、観光にお越しの際はご覧になってみてください。
その、神殿(本殿)の西側に、薬師堂(祇園寺・観慶寺と呼ばれたお寺)があり「牛頭天王」(ごずてんのう)の本地仏の薬師如来(伝教大師作・写真下)がお奉りされていました。
そんな京都の歴史にとって貴重な仏様が、今は当大蓮寺におられます。
最近、祇園にお住まいの方に聞いたのですが、廃仏が決まった時、その方のご先祖や町内の方々は必死の思いで仏様を担ぎ出されたようです。そこから民家に隠され、やがて縁のあった近隣寺院(当寺)に運びこまれました。
でも、薬師如来さまの災難は終わりません。五条西洞院付近の大蓮寺に移された後、第二次世界大戦中の昭和20年に強制疎開させられ大蓮寺は潰され、東山二条の現在地へ荷車で運ばれたようです。
本当に国の都合により、京都の歴史にとっても大切な仏様が粗末に扱われた時があるんです。

祇園社本地仏 薬師如来像ー重文ー 大蓮寺本堂内(秘仏)
明治以前の日本の信仰は、本地垂迹説という考えがあり神仏が習合しており、遠い世界の仏様(本地)が現世では神様として我々に近い存在としてお姿を表していただいている(垂迹)という考えがベースになっています。この事は後日もう一度発信しますので、今はあったということだけを覚えておいてください。
祇園社は、疫病封じというという部分が強く、祇園祭の前身といわれる祇園御霊会も疫病封じからはじまったといわれています。
「牛頭天王」は栴檀でできていたらしいですし、本地薬師如来さまとも薬という「キーワード」でつながっていたんですね。

